権現堂の歴史

幸手市の観光名所「権現堂桜堤」の歴史とそれを守る人々の活動をご紹介します。

権現堂桜堤は、天正4年(1576年)頃に築かれたといわれています。しかし、権現堂堤はすべてが同時期に築堤されたのではなく、河川流路の締め切りやそれに伴う築堤により部分的に作られていったものが後につながり、権現堂堤になったとされております。

権現堂川は暴れ河川としても恐れられ、宝永元年(1704年)に、はじめて権現堂堤が切れてから、幾度も決壊をしてきました。その被害は遠く江戸にまでおよび、大江戸八百八町の半ばは水浸しになると言われた江戸を守る堤として大切に管理されておりました。

天明6年(1786年)権現堂堤木立村の破堤により濁流に飲み込まれた村人は、銀杏の大木にすがり避難していましたが、それも根こそぎ流され平野村須賀間に流れ着き無残にも75名という流死者が出てしまいました。このため、現在でも犠牲者の供養が行われております。

この後も、幾度にも水害に襲われ、享和2年(1802年)にも、権現堂堤の月の輪堤部分が決壊をし、権現堂村では、80軒の民家が流される被害が出ております。 「母娘の順礼の悲話」もこのときのものとされております。

市指定史跡「順礼の碑」

文政9年(1826年)には、度重なる堤の決壊に困り、堤の補強にと上宇和田村から松石村に至る権現堂堤に松の苗木1,300本が植えられましたが、根づかず何度か植えなおしが行われました。ですが、結局根づかなかったようです。

この頃になると、堤の管理が甘くなり、天保3年(1832年)頃には、堤通りへ竹や木が植え付けられ林同様に茂る場所や屋敷同様に堤を囲い、河岸場の便利に任せ小段を切りならし、作付けのための小段とその他を掘り返し苗木を植え付けるなどの実態が指摘されております。野菜などの栽培をするようになったのもこの頃だと思われます。

この後、時代は江戸から明治へと移り変わり、明治9年6月4日に明治天皇の東北巡幸の際に築堤工事を視察するために駕籠を止めさせました。このとき、堤の名を行幸堤とすることが許され、記念碑を建てるために金100円が下賜されました。

この頃、権現堂堤周辺は見渡す限り平野で堤上からは、西に富士山、東に筑波と眺めがよく、大正6年に「幸手町誌」を刊行した後上辰雄氏は、権現堂堤の風光として次のように記しています。

春は若草のしとね青きを素足に心地快くふむで、眼下一面黄金と光る油菜の花をながめながら蝶と戯れスミレ・タンポポ・ツクシ等と摘み草に一日の暮れるのを忘れるだらう

このように、権現堂堤は遠い昔より、人々の憩いの場所として親しまれてきました。度重なる水害にもめげず、その都度修復を行い権現堂堤と共に人々は暮らしてきたのです。

NPO法人幸手権現堂桜堤保存会の活動

昔は、川で魚やしじみをとって遊び、堤に立ち遠くに汽車(現在の東武日光線)の煙を望み、夏の訪れ前に蛍が姿を現す。今とは違う四季折々の風景の中で過ごしてきた人たちにとって、桜堤は特別な場所です。

「この風景を残したい。子供の代まで残さなくては。」保存会の発足はそんな想いからはじまりました。そして、平成17年にNPO(特定非営利法人)に認定されました。

会員の多くが地元の方ですが、以前幸手市に住んでいた方や、お花見で桜堤を訪れたことがきっかけで参加している方もいます。

権現堂と言えばみなさんすぐに思い浮かべるのは「桜」かと思います。

桜まつり期間中は多くのお客様にお越しいただき賑わう堤ですが、桜の季節が過ぎてしまうと急に寂しくなってしまいます。

そこで、保存会の皆さんは桜以外の季節にも堤を楽しんでいただくために他の花も植えることにしたそうです。

今では、紫陽花や曼珠沙華、水仙と春以外の季節にも花が咲く権現堂堤となりましたが、最初は“向日葵”を植えたそうです。

しかし、堤は平地が少ないため向日葵を楽しむには場所不足でした。また、土も固く向日葵には向いていなかったと言う事で2年で断念しました。そして次に植えられたのが“紫陽花”だったのです。

あいたスペースに何気なく植えた3本の紫陽花からはじまり、現在では“紫陽花の名所”と言えるほどの風景となりました。ここまで紫陽花を増やしていくのには、保存会の人たちの努力があります。

紫陽花は、意外に手がかかるそうで、会員のほとんどが花には知識がなかったため手入れの仕方、剪定、さし木の方法等、勉強をしました。一度自宅でさし木をし2年程育ててりっぱになったら堤に戻します。これを繰り返すことで現在の株数まで増やしました。

最初にはじめた向日葵は定着しませんでしたが、そのおかげで、現在の紫陽花、曼珠沙華、水仙の風景が広がることとなりました。

シーズン中には、桜・菜の花・紫陽花・曼珠沙華・水仙と四季の花が咲き誇ります。「それぞれの季節になればそれぞれの季節の花が咲くのは当たり前」と思ってしまいますが、満開の花を気持ちよくお楽しみいただくため、縁の下の力持ち・保存会の人たちの活動があります。

保存会の活動は、花の手入れはもちろんの事、枯れ枝・折れ枝・ゴミの回収などの清掃作業、危険箇所の点検と補修、水路の整備、シーズンには桜堤までの案内板を道路に設置等々、数え切れない程の作業を行っています。

桜の木は人間の髪の毛と同じで、新しい枝が生えてきたら古い枝が枯れて折れ、再生を繰り返します。そのため、放っておくと堤には大量に枯れ枝がたまってしまいます。活動の一つである“枯れ枝の回収”は定期的に行われますが、多い時には、軽トラック4台分にもなるそうです。

また、落ちている枝だけでなく、枯れて折れそうになっている太い枝も事前に切り落とします。これは、散策する方の頭に枝が落ちてこないようにという安全対策です。特に桜まつり期間中には人の目の高さなど危険な枝がないか、強風の次の日に折れている枝はないかなどの見回りは念入りに行います。もちろん桜にも優しく、切った枝の切り口には薬をつけたり消毒作業を行い、木が病気にならないように配慮をします。

桜堤にあるソメイヨシノは約50年が寿命だそうです。桜堤には大正5年に桜が植えられましたが、戦争の時に伐採され、昭和になってから植えなおされました。権現堂桜堤の桜も多くが寿命を迎えています。

満開に咲き誇る花を見るとその気配を感じさせませんが、木肌を見ると割れているものも見られます。こうした木が倒れてしまう危険があるため、寿命を迎えた木の伐採も考えなくてはいけないそうです。一緒に育ってきた桜の木の伐採は、きっと辛い決断なのではないかと思いますが、これも堤を守るための保存会の活動の一つです。

堤を愛し堤を守るため、毎日堤に顔を出し活動している保存会の人たちですが、シーズン中には堤を訪れたお客様が快適にお花見をお楽しみいただけるように、堤をパトロールしながらご案内しています。

昔から開かれていた桜のお祭り

毎年お花見の時期には多くの方にお越しいただくようになった桜まつりの歴史をご紹介致します。

桜まつりの沿革

大正14年4月大正9年から植えられた桜は見事に育ち、シーズンには多数の人手がありにぎやかな花と紹介される。
昭和4年4月12日東京日日新聞 幸手権現堂(行幸)堤の桜まつりを紹介。 東武線幸手駅開設 “そこぬけ屋台”を引き回し、桜堤にくり出す。
昭和7年4月東武線浅草駅から幸手駅まで、臨時電車が出る。
露天商も軒を連ね小屋掛けをし芝居などの興行も行われ、幸手の町中には検番があり芸者を呼ぶ人たちもいた。
昭和8年4月幸手青年団 権現堂(行幸)堤 観桜事業を行う。
救護、交通整理、筵(むしろ)整理、観桜客の便宜、湯水の接待等 (手当て・日当四十銭、幸手町補助金・百円、商工会補助金・拾円、茶菓子代・一日五銭) (打ち上げ・自転車旅行 筑波山 雨引観音 笠間稲荷神社)
昭和10年12月栗橋より西関宿にいたる桜堤 東京市 緑地区域に予定される。 幸手町青年団 花見の際交通整理・清掃などを行う。
昭和18年4月戦争中でも当地では花見は実施していた。
昭和20年戦後米軍の幸手進駐にて桜を伐採する。 (燃料として、全戸に配給)
昭和24年桜が戦後伐採されたため、栗田亀造氏、公民館職員により桜の植栽を始める。
(3,000本の苗木を国道4号線から県道にかけ約1kmの堤に植えられる。その苗木の3分の1約1,000本のソメイヨシノが現在残っている。)
昭和26年幸手町保勝会によって各種行事を計画、実施した。ハイキングコースの設定・桜堤開き・演芸会・演奏会・舞踏大会など。
昭和28年埼玉新聞で行った「県下“観光50選”」に推薦され、30選に入選した。これを機会に保勝会が桜60本を増殖。
昭和29年埼玉新聞主催「県下桜コンクール」第4位、東関脇に。
昭和30年この年、雪洞(ぼんぼり)に電灯を点けたため夜桜の鑑賞も。また、観光協会が設立された。会長 殿塚町長、副会長 中村商工会長
昭和32年全日本写真連盟・朝日新聞浦和支局共催の写真撮影会を実施
昭和34年郷土芸能の公開も行われる。川崎の囃子と面神楽・千塚の手踊り・一ッ谷の飴屋踊り・関宿囃子など。
昭和58年行幸堤・権現堂堤が幸手町指定文化財(名勝)となる。
昭和59年観光協会によって「さくら娘コンテスト」が行われる。
昭和62年北公民館オープン。「さくら娘コンテスト」は「ミスさくらコンテスト」に。
昭和63年周辺農地に菜の花を作付け。19,000平方メートル(約19反)